【スタッフの映画話】『春をかさねて』『あなたの瞳に話せたら』 - 小田原シネマ館 | ODAWARA CINEMA
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【スタッフの映画話】『春をかさねて』『あなたの瞳に話せたら』

当館スタッフが思うことを綴るシネマレター、今回は佐藤そのみ監督作『春をかさねて』『あなたの瞳に話せたら』についての一篇です。本作は、佐藤監督が大学時代に制作されたもので、 2011 年 3 月 11 日に起きた東日本大震災における被災地の人々をフィクションとドキュメンタリーの手法で描いています。

〈留めること、前に進むこと〉

『春をかさねて』で印象的なのは、中学生の祐未とれいがぶつかり合う場面。亡くした妹への想いを気丈な言葉で取材者に語る祐未と、ボランティアの大学生に恋をするれい。一見すると、二人は対比を生み出す関係にあると捉えることができます。しかし、彼女たちは、震災を生き残った者が楽しく日常を過ごすことへの葛藤を共に抱えているのです。

震災の先を生きるということは、亡くなった人がどうしたって新しく経験できないことを、自分たちは経験できてしまうということ。自分の一歩一歩が、亡くなった人の持っていただろう未来への可能性というものの死を縁取っていってしまう。

さらには傷を重ねるように、全員に等しく責任のようなものを強いてしまう。その原因の一つは、周囲からの視線を当事者同士の間で内面化してしまうところにあるのかもしれません。

れいには“被災者のお手本”のように映った祐未。ところがその後、「今の自分に、妹はどんな言葉をかけてくれると思うか」と記者から問われた際には言葉を詰まらせます。メディアや被災地には、伝え続ける務めがあるでしょう。けれども時に、どうしてそんなことを答えさせようとするのだろう、というような質問が投げかけられる。その時、祐未のような人物ならば、淀みなく返してしまうことももしかするとできたかもしれない。記者が期待するような、“前向きな”回答を。

しかしながら、それをしなかったのは祐未の大きな意思だと思います。記者のあの質問に答えることは、必要以上に自分の人生を亡き妹に縛りつけること、それを受け入れることと同義だったのではないかと思うのです。

当時に心を留め続けることは、震災やそこにいた人々を風化させないということです。けれども、そうして伝え続けることには、時折負担がかかる。時間が経つほどに亡くなった人との歳の差は離れていきますが、それは、季節を重ねるごとに彼らを思い出す回数が積み重なっていくことでもある。留めることと前に進むことは、同じ方向にあるものなのではないかと思います。

『あなたの瞳に話せたら』では、書簡形式に話す「私」が、台風被災地のボランティアに参加した時のことを回想します。そして、想像よりも遥かに深刻な状況やその想像の至らなさを痛感し、

——「どんな顔をしても、間違っている気がした」

と言います。ここにあるのは、被災者でもある「私」の、記者としての一面。内部と外部の両面やその境界に立って、さまざまな側面から心情が描写されています。「どんな顔をしても間違っている」というのは、どこまでもその通りなのだと思います。この場面では他者に対してそう感じるわけですが、親しい人や自分自身に対してでさえも同じことでしょう。

正解がない中でも時間は進んでいきます。ただ、正解がないなら、間違いもないかもしれない。何かを言葉や映像に残し、紡ぎ続けることへの希望の眼差しが、「あなたの瞳に話せたら」という題名に繋がっていくのだろうと思います。

『春をかさねて』『あなたの瞳に話せたら』3/13(木)まで上映中!

ぜひ劇場にて、お待ちしております。パンフレットも販売中です。